人的資本経営とは何か:背景と定義
「人的資本経営」とは、人材を企業の重要な資本としてとらえ、その価値を高める経営手法です。
従来は人件費は単なるコストやリソースと見做され、削減の対象になりがちでした。しかし、企業の中長期的な価値向上には人材への投資が不可欠であり、従業員の能力開発や働きがい向上が重要だという認識が広がっています。
人材に積極的に投資し、スキル向上や能力発揮を促すことで企業価値を高めていく――この考え方が人的資本経営の核です。
人的資本の概念は経済学から来ており、「人が持つ能力や技能をモノやカネと同様の資本とみなす」ものです。近年、企業価値の源泉が有形資産から無形資産へとシフトしており、とりわけ人材の持つ知識・技能・才能といった無形の資産が企業競争力の鍵を握るようになっています。実際、米国企業では企業価値に占める無形資産の比率が1975年の17%から2015年に84%、2020年には90%にまで増えたという調査もあります。人的資本すなわち従業員の能力・経験は、こうした無形資産の中でも特に重要度を増しています。
人的資本経営が注目されるようになった経緯には、ESG投資の潮流やステークホルダーの期待の高まりがあります。ESGの「S(社会)」に該当する要素として、人材戦略やダイバーシティへの取組みが投資判断材料となり、企業も人的資本に関する情報開示や戦略強化を迫られるようになりました。
欧米では日本に先行して非財務情報の開示が進み、欧州連合(EU)は2014年から非財務情報開示指令で「社会・従業員」に関する情報開示を義務付けています。また米国でも機関投資家からの働きかけにより、2020年11月からSEC(証券取引委員会)が上場企業に人的資本情報の開示(S-Kディスクロージャ)を求め始めました。こうした海外の流れも後押しとなり、日本でも人的資本経営への関心がここ数年で一気に高まっています。
人的資本情報開示と関連フレームワーク(ISO規格・ガイドライン・統合報告書・TCFD)
人的資本経営の浸透とともに、人的資本に関する情報開示の枠組み作りも進んでいます。
日本では近年、政府や国際機関から様々なガイドラインや基準が示され、企業はそれらを参照しながら自社の人材戦略を可視化・説明することが求められています。ここでは主な枠組みとして、国際標準であるISO30414、日本政府による「人的資本可視化指針」、企業の任意開示として定着している統合報告書、そして気候関連情報開示の枠組みTCFDとの関係について解説します。
- ISO30414(人的資本報告の国際規格)
ISO30414は、人的資本情報開示に関する国際ガイドラインです。2018年12月に国際標準化機構(ISO)から公表され、人材マネジメントの11領域について定量データで報告するための58の指標(メトリック)を示しています。ISO30414の目的は、企業や投資家が人的資本の状況を定性・定量的に把握すること、そして人的資本への取り組みが企業の持続可能な経営につながることを支援する点にあります。
具体的な指標領域としては、「ダイバーシティ」「リーダーシップへの信頼」「組織文化(エンゲージメントと定着率)」「健康・安全」「生産性」「採用・異動・離職」「スキル・能力」「後継者計画」「労働力構成」など計11分野が挙げられます。ISO30414は報告すべき項目を網羅的に提示していますが、すべて開示する義務はなく、自社にとって重要な指標を選択して報告するよう柔軟性が認められています。国際的な共通基盤として、多くの企業がISO30414を参考に自社の人的資本KPIを設定し始めています。 - 「人的資本可視化指針」
これは日本政府(内閣官房)が2022年8月に策定・公表した、人的資本情報開示のガイドラインです。人的資本可視化指針は、企業がどのような項目を開示すべきかの方向性を示したもので、特に7つの分野に分類された19項目の情報開示を推奨しています。
7分野とは、①人材育成、②従業員エンゲージメント、③流動性(人材の採用・定着・異動)、④ダイバーシティ、⑤健康・安全、⑥労働慣行、⑦コンプライアンス・倫理です。
例えば、人材育成分野では「リーダーシップの開発」「教育訓練への投資」「従業員のスキル・経験の向上」といった項目を含み、エンゲージメント分野では「従業員満足度や働きがいの度合い」といった項目が挙げられています。流動性分野には「採用」「維持(離職率や定着率)」「後継者育成(サクセッションプラン)」、ダイバーシティ分野には「多様性(組織の属性構成)」「非差別」「育児休業」、健康・安全分野には「心身の健康管理」「労働災害防止」等、労働慣行分野には「公正な賃金や福利厚生」「児童労働・強制労働の防止」「労使関係の状況」等が含まれます。コンプライアンス・倫理分野では「企業倫理遵守や人権尊重の取り組み」などが対象です。
これら19項目すべての開示が義務というわけではなく、自社の経営戦略やステークホルダーの関心に照らし重要な項目を選択して開示することになります。
人的資本可視化指針は、開示内容の検討にあたり「自社独自の戦略に基づく指標」と「企業間比較可能な指標」のバランスを取ること、さらに「企業価値向上のための取組(機会)」と「価値毀損リスクへの対応」の双方の観点を意識することが重要だと強調しています。これは経営層にとって、単なる数値公開ではなく戦略ストーリーのある開示を行うよう促すメッセージと言えるでしょう。 - 統合報告書
統合報告書は、財務情報と非財務情報を組み合わせて企業価値創造ストーリーを伝える任意開示の報告書で、日本の上場企業でも近年多く発行されています。
従来、人的資本に関する情報はこの統合報告書やCSR報告書で自主的に開示されることが主流でした。統合報告書では経営戦略や事業モデルとともに、人材戦略・組織文化・従業員データなどが語られます。多くの企業が「人的資本経営の重要性」を統合報告書で訴求し、従業員数や教育研修の実績、ダイバーシティ施策、従業員エンゲージメント調査結果などを掲載しています。もっとも、統合報告書はページ数や内容が多岐にわたるため、人的資本に特化した詳細データまでは掲載しきれない場合もあります。
このため近年は統合報告書に加えて、より詳細な人事KPIをまとめた「人的資本レポート」を別途発行する企業も増えています。実際、2021年には人的資本レポートを発行する日本企業は0社でしたが、2022年に8社、2023年には27社、2024年には44社と急増しています。2025年9月時点では国内で63社が人的資本レポートやPeople Fact Bookといった専用報告を公開しており、人的資本情報を統合報告書から切り出してより体系的・定量的に示す動きが広がっています。
このように統合報告書は従来から人的資本情報開示の一翼を担ってきましたが、情報量の増大に伴い、統合報告書+人的資本レポートの二本立てで開示充実を図る企業も増えているのが現状です。 - TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)との関係
TCFDは気候変動に関する情報開示のフレームワークですが、その成功事例にならい、人的資本など「社会(Social)」分野の情報開示でも同様の枠組みを適用しようとする議論があります。
TCFD提言では開示項目を「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標と目標」の4つの要素で整理していますが、この考え方は国際サステナビリティ基準(ISSB)の基準にも受け継がれ、さらに人的資本開示の指針にも類似のフレームワークを適用することが検討されています。実際、日本の有価証券報告書の記載項目もISSBやTCFDにならって上記4要素を基本枠組みとしつつ、その中の「人材戦略」「指標と目標」から先行して義務化する形が採られました。
また国際的には、TCFD(気候)やTNFD(自然)に続き、人的資本を含む社会領域の開示枠組みづくりとしてTISFD(不平等・社会関連財務情報開示タスクフォース)の動きがあります。TISFDは2023年に複数の団体が統合して発足した枠組みで、2024年にも最初の開示基準案が提示される見通しです。このように、TCFDで確立した「ガバナンス・戦略・リスク管理・指標」の開示フォーマットは人的資本分野にも波及しつつあり、気候同様に人的資本でも国際標準となる指針や枠組みが台頭してくる可能性があります。
TCFDが上場企業の気候関連開示を実質的に標準化・義務化へ導いたように、人的資本についても国内外で標準化された開示基準が整備される方向にあります。
上場企業における人的資本情報開示の義務化(2023年3月期~)
日本では2023年3月期決算から、上場企業による人的資本情報の開示が本格的にスタートしました。具体的には、金融商品取引法に基づき有価証券報告書(年次の法定開示書類)を提出する約4,000社の企業に対し、人的資本に関する情報記載が義務付けられたのです。
初年度の開示義務項目は限定的でしたが、段階的に充実が図られてきています。ここではその制度概要と、2023年以降の開示の流れについて説明します。
▼開示義務の概要(2023年3月期~)
- 開始時期
2023年3月期決算以降に提出される有価証券報告書から適用。2023年6月に提出期限を迎えた企業(3月期決算企業)から順次、人的資本情報が織り込まれました。 - 対象企業
金商法第24条により有価証券報告書の提出義務がある大手企業(主に上場企業)約4,000社。現在のところ非上場企業は直接の義務対象ではありませんが、将来的に範囲拡大の可能性も指摘されています。 - 義務付けられた開示項目
大きく2区分あります。- 「サステナビリティに関する考え方及び取り組み」(全上場企業が対象) – 具体的には、①人材育成方針、②社内環境整備方針(働きやすい職場環境づくり等)、③これら方針に関する測定可能な目標および進捗状況の3点を開示。要するに自社の人材戦略(方針)と、そのKPI・目標を示すことが求められています。
- 「従業員の状況」(一部企業が対象) – 女性活躍推進法または育児・介護休業法に基づき情報公表義務のある企業は、加えて④女性管理職比率、⑤男性育休取得率、⑥男女間賃金格差を開示。これら3項目は法令で既に公表が求められている指標ですが、有報に統合して記載することで投資家にも情報提供する狙いがあります。
以上のように、初年度は合計6項目(方針2種+目標進捗+ダイバーシティ関連3種)が義務化されました。金融庁はこの開示義務化について「まずは2023年3月期から開示を開始し、その後は投資家との対話を踏まえ開示内容を充実させていく」との方針を示しています。
これは、いきなり詳細な全項目開示を強いるのではなく、まず企業と投資家の対話の材料として基本情報を開示させ、徐々に深度を増すアプローチです。したがって、2023年は「開示元年」と位置付けられ、各社手探りで最低限の情報を記載し始めた段階と言えます。
2023年の開示状況
実際に2023年夏までに提出された有価証券報告書では、多くの企業が上記の義務項目を盛り込んでいます。人材育成方針や職場環境整備方針については、自社の経営理念や人事戦略を記述し、それを裏付ける定量目標(例:研修投資額を〇%増やす、女性管理職○%まで引き上げる等)を示す企業が多く見られました。
また女性管理職比率等のデータも、該当企業ではほぼ全社が記載しています。もっとも、開示内容の詳細さには企業間で差があり、先進的な企業は任意項目も含め多くの指標を開示する一方、最低限の記載に留めた企業もあります。例えば、従業員エンゲージメントやスキル指標など任意情報まで積極開示した企業がある一方で、それらに触れなかった企業も少なくありません。
調査によれば、2023年時点で上場企業が社外に開示している項目として多かったのは「コンプライアンス・倫理」(45.5%の企業が開示)や「育児休業」(39.6%)、次いで「ダイバーシティ」(37.7%)や「採用」(36.6%)でした。逆に開示が遅れている項目は「サクセッション(後継者計画)」(開示企業17.9%)、「スキル・経験」(18.7%)、「エンゲージメント」(18.7%)といった領域です。
これは、多くの企業がまず法令や社会的関心の高いダイバーシティやコンプライアンス関連から情報発信し、内部の戦略的な人材育成指標(エンゲージメントスコアや次世代リーダー育成など)はこれから整備・開示を進める段階であることを示唆します。今後、各社が他社の開示内容を参考にしつつ、自社に不足している指標の整備や開示範囲拡大に取り組んでいくとみられます。
また制度面では、ISSB基準の国内導入や開示項目の追加も見据えられています。国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)が2023年6月に公表した基準(持続可能性関連財務情報S1・気候S2)は、日本でも2026年3月期からの適用を視野に準備が進められています。ISSB基準では「ガバナンス・戦略・リスク管理・指標と目標」の包括的開示が求められており、人的資本も重要なテーマとして今後国際議論が本格化する見込みです。
経営層としては、この制度変更の動向を注視するとともに、単なるルール対応に留まらず、自社の価値創造ストーリーに沿った人的資本情報の充実を図っていくことが重要です。
開示されている具体的な指標・項目の例
人的資本情報の開示項目は多岐にわたりますが、前述の政府ガイドラインで示された7分野19項目が一つの指針となります。ここでは、それらを中心に具体的によく開示される指標例を紹介します。企業は自社の状況に応じ、以下のような定量データや取り組み内容を開示しています。
- 人材育成(リーダーシップ開発・育成施策・スキル向上)
例: 従業員一人当たりの年間研修時間、研修費用総額、管理職候補育成プログラムの受講者数、定期的な人事評価・キャリア面談の実施率、従業員の資格取得支援制度の利用状況、など。企業によっては「リーダーシップ育成」の成果指標として360度評価による信頼度スコアなどを開示する例もあります。 - 従業員エンゲージメント(働きがい・満足度)
例: 従業員エンゲージメントスコア(社員意識調査の結果指数)、従業員満足度(ES)調査結果、「会社に誇りを持っている従業員の割合」等。併せてエンゲージメント向上策(社内コミュニケーション施策や福利厚生充実など)の紹介が行われることもあります。エンゲージメントは数値化が難しい面もありますが、サーベイ結果や離職率改善と絡めて説明されます。 - 流動性(採用・定着・後継者計画)
例: 新規採用者数や離職率、定着率(入社◯年後残存率)、採用コストや離職コスト、後継者育成状況(後継者候補人員数・後継者準備率)、重要ポストの社内後任率、求人充足に要する平均日数、など。特に離職率・定着率は多くの企業が開示する基本指標です。また「人材確保・定着の取り組み」として、採用ブランド強化や離職防止策(メンター制度等)の説明も合わせて記載されます。 - ダイバーシティ(多様性・機会均等・ワークライフバランス)
例: 女性社員・女性管理職の比率、外国人社員の比率や海外現地採用比率、男女間の賃金格差、育児休業取得率(男女別)と育休後の復職率、管理職の中途採用比率、障がい者雇用率など。男女別の平均給与差や正社員と非正規社員の処遇差も一部企業で開示されています。ダイバーシティは社会的関心が高いため、KPIを設定して目標値と実績を示す企業が増えています(例:「女性管理職比率○%」を◯年までに達成)。 - 健康・安全(労働安全衛生・健康経営)
例: 労働災害の件数・発生率・死亡災害数、休業災害度数率や労災による損失労働日数、定期健康診断受診率、従業員のメンタルヘルス不調者比率、ストレスチェック受検率、産業医面談実施件数、安全衛生教育の受講率など。健康経営に注力する企業では、社員の平均残業時間や有給休暇取得率、社内フィットネスプログラム参加率など独自の健康指標を設定している例もあります。 - 労働慣行(人権・労務管理・公正な待遇)
例: 人権に関する研修受講率、ハラスメント苦情件数および対策、労働組合加入率や団体交渉対象従業員比率、平均残業時間、有給休暇消化率、従業員あたり平均給与、内部通報件数など。さらに企業によっては、サプライチェーン上の人権リスクへの対応状況や、従業員との対話制度(従業員満足度調査結果の経営へのフィードバックなど)について説明するところもあります。 - コンプライアンス・倫理(法令順守・企業倫理)
例: コンプライアンス研修受講率、重大な法令違反や訴訟件数、懲戒処分の件数、贈収賄防止策の実施状況、取締役会での倫理監督体制の説明など。人的資本の一環として従業員行動規範や倫理観醸成への取り組みを記載する企業もあります。特に近年は人権尊重が重視されており、「人権デューデリジェンスの実施状況」「強制労働・児童労働の排除に関する方針と取り組み」等の情報開示も増えています。
以上は代表的な項目例ですが、実際には企業ごとに重要視する指標が異なります。
例えば製造業であれば安全(労災)が重視され、IT企業では人材獲得競争力として離職率やスキル研修が重視される、といった違いがあります。また開示にあたっては、単に数値を羅列するだけでなく「なぜその指標に取り組むのか」「どう改善させて企業価値につなげるか」というストーリーをもたせた説明が求められます。
各社とも、自社のビジネスモデルや経営課題に紐付けて人的資本KPIを設定し、経年変化や目標値を示すことで投資家に対する説明責任を果たそうとしています。
実際の上場企業に見る人的資本開示の事例
最後に、具体的な上場企業の人的資本情報開示例をいくつか紹介します。各社の業種や経営戦略に応じて、重視する指標や取り組みが異なる点に注目してください。
- 日立製作所
総合電機メーカーの日立は、「人的資本はサステナビリティ目標を実現するための大切な財産」と位置付け、特にダイバーシティ(多様性)に関する情報開示に力を入れています。具体的には、取締役会に占める女性や外国人の役員比率や、事業戦略に不可欠なデジタル人材数(国内外)などの指標を公開しています。多様な人材の活躍推進がイノベーション創出につながるとの考えから、これらを経営目標として掲げているのです。 - 三井化学
大手化学メーカーの三井化学は、長期経営戦略の優先課題として「人材の採用・育成・定着の強化」を掲げ、それに沿った人的資本情報を開示しています。特徴的なのは、独自の指標として「後継者準備率」を算出・公表している点です。これは将来の経営幹部候補の充足度合いを示すもので、同社の人材育成の成果を測る重要KPIになっています。そのほか新卒・中途の採用者数や定着状況、人材育成プログラムの受講者数なども開示し、人材戦略の進捗を定量的に示しています。 - 伊藤忠商事
総合商社の伊藤忠商事では、「従業員の持続的な能力開発」を最重要課題に位置付け、人材育成に関する目標と行動計画を明示しています。具体的な開示項目として、総合職および管理職に占める女性比率や、従業員意識調査によるエンゲージメントスコアなどをKPIとして掲げ、公表しています。商社という人材が命のビジネスにおいて、社員の多様性と能力開発が持続的成長のカギであるとの認識から、数値目標を定めて着実に実行しています。 - 積水ハウス
住宅メーカーの積水ハウスは、グローバル展開も視野に入れた人的資本開示を行っています。具体的には、女性管理職数と比率、中途採用者数と比率、さらには海外子会社における現地採用管理職の数と比率などを開示し、それぞれについてKPI目標を設定しています。例えば「女性管理職比率○%」という具体的な数値目標を掲げ進捗を開示することで、社内外にコミットメントを示しています。 - 双日
総合商社の双日は、人材戦略の柱として「多様性」「挑戦」「成長」の3つを掲げ、それぞれについてユニークなKPIを設定しています。例えば多様性では「女性社員比率50%、女性課長職比率20%」「外国人CxO比率50%以上」といった目標値を公開し、挑戦では社内指標として「挑戦指数・成長実感指数90%以上」、成長では「デジタル基礎研修修了者比率25%以上」など、独自の定義による指数を開示しています。これらは同社の企業文化である挑戦促進・人材育成を数値化したものであり、自社の戦略に即した人的資本経営の形を示す好例と言えます。
以上のように、各社とも自社の経営理念や戦略課題に直結する形で人的資本KPIを選定し、公表しています。経営層向けには、他社事例を参考にしつつも自社の強み・課題に合った指標を見極めることが重要です。
他社が開示している指標であっても、自社の価値創造に資するものか吟味し、独自性ある取り組みとして打ち出すことで、単なる開示義務対応ではない戦略的な人的資本経営をアピールできます。
今後の展望と経営層が押さえるべきポイント
人的資本経営とその情報開示は、今後ますます経営課題としての重要性を増すでしょう。経営層としては以下の視点を押さえておく必要があります。
- 投資家の関心と評価の高まり
人的資本への投資は長期的な企業価値創出の源泉として国内外の投資家から注目されています。人的資本情報の開示義務化を機に、投資家は企業間比較やエンゲージメント(対話)でこれら情報を活用し始めています。今後、人的資本への取り組みが不十分と見なされれば、株価評価や資本コストに影響する可能性もあります。経営層は人的資本を財務情報と並ぶ戦略情報と捉え、積極的な情報発信と対話を行う姿勢が求められます。 - 開示内容の高度化・標準化
初年度の開示は基本的な項目に留まりましたが、今後は開示内容が高度化すると予想されます。国内では人的資本可視化指針を踏まえたモデル開示例の共有や、開示項目の拡大(例:人的資本のリスクや人権デューデリ対応状況の開示)が検討されていくでしょう。国際的にもISSBやTISFDなどを通じ指標の標準化が進み、企業に求められる水準が上がる可能性があります。経営陣は自社の人的資本データを継続的に整備し、国際基準とのギャップを把握して、先手を打った開示の充実を図ることが大切です。 - 「戦略ストーリー」と「リスク対応」の両輪
人的資本情報は、企業の成長戦略を語るポジティブなストーリーと、潜在的課題を示すリスク情報の両面があります。経営層はこの両面に目配りし、例えば「人的資本への投資で将来これだけの価値創出が見込める」という明るいビジョンと、「従業員エンゲージメント低下や人材流出といったリスクにこう対処している」という守りの情報の双方を開示する必要があります。特に企業独自の強みとなる人材施策については積極的に定量成果を開示し、他社と差別化することが望ましいでしょう。同時に、ダイバーシティや労働環境など社会的要請の強い領域で不足があれば改善計画を示すなど、リスクマネジメント面でも透明性を高めることが重要です。 - 人的資本経営の本質を忘れない
数値指標の開示対応に注力するあまり、肝心の経営戦略と人材戦略の連動がおろそかになるケースも懸念されます。人的資本経営の目的はあくまでも企業価値の向上であり、開示はその手段に過ぎません。経営トップ自らが人的資本に関するビジョンを示し、現場の施策とリンクさせていくことが求められます。例えば「デジタル戦略を支える人材育成」という経営課題があるなら、そのための教育投資額やデジタル人材育成数をKPIとして設定しPDCAを回す、といった具合に、経営戦略⇔人材戦略⇔KPIを一貫させることが肝要です。 - 社内体制とデータ整備
人的資本情報を適切に開示するには、社内の人事データ基盤やガバナンス体制の整備も不可欠です。各種KPIの定義や算出方法を統一し、年次でトラッキングできる仕組みを作る必要があります。また開示プロジェクトとして、経営企画・人事・IR部門が連携し、トップメッセージから現場施策まで一貫したストーリーを組み立てることも大切です。初年度の振り返りを踏まえ、データの正確性や網羅性を高めるとともに、「何を伝えれば自社の価値評価につながるか」を経営陣で議論する機会を持つとよいでしょう。
以上のポイントを踏まえ、人的資本経営は単なる流行のキーワードではなく経営そのものの質を問うものであると捉えるべきです。
人的資本への投資と情報開示を適切に行うことは、優秀な人材の獲得・定着にもつながり、ひいては企業の持続的成長エンジンとなります。経営層としては、自社のミッション・バリューに照らして「人材をどう活かし、どんな未来を創るのか」を明確に示し、その進捗をオープンに発信していく姿勢が求められているのです。